宮古島に救われたハナシ
こんばんは。
すなっちです。
私は生まれも育ちも宮古島なのですが、大学生時代から社会人2年目まで、九州におりました。宮古島に帰ってきたきっかけは、会社が嫌になったからでした(笑)
大学をでて入った会社は、県内では有名な企業でそこそこ収入もよく、
また社会貢献的な面(まぁ自己満足ではありますが)もふくめて、本当にいい会社でした。ただ、私の場合は、直属の上司と馬が合わなかったのですねぇ。。。
よく面倒を見てくれた上司がいました。あるとき、その上司が間違いを犯しました。上司は私にそれを黙っているように指示をしました。本来なら、コンプライアンス違反になるような、それはそれは大きな過ちでした。私はそれを快くは思わず、最低でも、報告をするべきと意見を言いました。結果それは行われず、また私から告げ口をすることもありませんでした。
いつからか挨拶をしても返事をもらえなくなりました。業務上の話をするときも、目を合わせてくれなくなりました。
いつからか、名前を呼ばれなくなりました。
それほど人は多くない部署でしたから、それはそれは若い私には堪えました(;^_^
こらえきれず、逃げ出したのです。
そう、
岐阜に。(笑)
今の嫁とは当時から付き合っていたので、結婚のためにとにかく収入を下げたくない一心から、自動車工場に勤めました。ここで陰湿ないじめにあい、すなっちはいよいよ精神的におかしくなりはじめます。ほどなくして工場を辞めました。
九州で逃げるように仕事をやめ、またろくに準備もせず岐阜へ飛び出したわけですから、そこで仕事を辞めるとなればいよいよ貯金が底をつきます。
そう、そこでようやく、宮古島に帰るしか選択肢がなくなったのでした。
宮古島に帰った私はしばらく休業状態、いわゆるニートになります。とはいっても2週間くらいだったでしょうか。しばらくはゆっくりしようと思っていたけれど、貯金も何もないものだから働かないのはそれはそれで落ち着かず、悶々とした日々を送るのでした。
かといってすぐに仕事が見つかるわけでもなく、それはそれは本当に辟易したのを覚えています。ただ、実家には車がありました。
両親の普段使いの車が2台、農業用の軽トラが1台。(宮古島では夫婦で3台持ちはよくある)
その時は農業が忙しい時期ではなかったので、軽トラがあまっていたのです。
私は軽トラに乗って、宮古のいたるところに一人で行きました。
来間島、池間島、伊良部島、与那覇前浜、新城海岸、海中公園、東平安名崎、平良港、、、、、
しばらくぶりに帰った宮古島の風景は、変わらず私の眼前に悠々と広がっていました。
そこで気づいたのです。私の悩み、焦りの何たる小さなことか。。。
変わらず受け入れてくれる故郷があるだけで、人はこんなにも感動するのかと。本当に私にとって大きな経験でした。
そのことに気づいたらあとはもうやるしかないなーと。
いわゆるなんくるないさーです。(宮古の人はつかいません(笑))
恥も外聞もなく、わたしが今頑張れる環境で、できる限り頑張ればいい。
そう思うと不思議と苦しみも消え、自然と頑張ることができました。
また、嫁もそんな私で良いと言ってくれました。
そして今日まで至ります。
だから、私はこの島が大好きなのです。
一度疲れ果てた私を癒してくれた、私の故郷であり続けていてくれたこの島が、本当に大好きです!
今、宮古島に来る観光客は増え続けています。
もっともっと多くの人に宮古島について知ってもらいたい。
そして私のように心が救われる人が1人でもいればいい(^^)
その思いで日々ブログをつづっております。
読者の皆様にも、宮古島の魅力が伝わればいいなぁ(^^)
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